鸚鵡籠中見聞録

鸚鵡(鸚鵡返しの鸚鵡です。見たり聞いたりしたことを真偽も確かめずそのまま書きなぐっていきます。)の戯言です。余り真剣に捉えないで下さい。
もし間違っていると思ったら指摘して下さい。すぐ直しますので・・・その場合はご免なさい。m(_ _)m

  2010年8月  
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
リンク集
  1/11ページ  次のページ>
2007-11-14
IMG_1473.jpg
IMG_1474.jpg
今日は西教寺の菊御膳を紹介します。(と言っても私自身も初めてです。)
西教寺に菊御膳を申し込んだ時に本堂が良いですか?イスで食べられる食堂にしますか?と聞かれて食堂にして貰いました。
西教寺の研修道場の食堂に菊御膳が用意してありました。
IMG_1484.jpg
流石に西教寺の食堂です。仏像が見守っています。
さて肝心な料理です。
IMG_1478.jpg
IMG_1477.jpg

菊酒は初めてですが、(昔の重陽の節句に飲むのと同じかな?
ちょっとググって見ました。
菊酒とは重陽の節句(旧暦の九月九日)いわゆる「菊の節句」に飲む菊の花を浸した日本酒のこと。
花札の絵に菊と酒盃がセットで描かれているのは「菊酒」を表現したもので、「桜に幔幕」の札とで「花見酒」、「月」の札とで「月見酒」と日本の行事にまつわる役を作る札。
製法
江戸時代の資治通鑑には二種類の製造法が紹介されている。
一つ目は、菊の花びらを浸した水で仕込みをすると言うもので、有名な加賀の菊酒はこの製法で作る。
二つ目は、現在梅酒などを造る時の要領で、氷砂糖と一緒に寝かせた菊の花びらを焼酎に漬け込むもの。眼病や婦人病に効果があると、江戸時代に広く薬酒として愛された。
そのほか、原料となる米に菊の花の香りを移すものなど、諸説ある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
IMG_1481.jpg
飲んで見ると甘〜い梅酒みたいな味がしましたから、製法その2ですね。ほのかに菊の香りがしました。IMG_1482.jpg
西教寺の箸をいただいて帰りました。
菊御膳の感想は「菊のなます」と「菊の白あえ」と「菊寿司」が美味しかったです。特に菊寿司は、ちりめんご飯の変形でした。(私がちりめんご飯が好きな所為もある。)「胡麻豆腐の菊あんかけ」は胡麻豆腐のはこくが有って美味しかったのですがあんかけがちょと辛すぎました。
帰りにユーモラスな龍に挨拶をして色ずき始めた参道を愛でながらゆっくり秋を満喫しました。IMG_1485.jpg
IMG_1486.jpg
Posted by makun at 21:03:54 │今日の出来事
2007-11-11
散歩はたま〜にしていたのですが、投稿は超久々です。
今日の散歩は和田一族のお墓を見に行きました。(お墓の掃除がいつも行き届いて感服しております。)今日も全部の墓に菊の花が・・・IMG_1461.jpg
IMG_1463.jpg
IMG_1465.jpg
IMG_1467.jpg
和田秀純夫妻の(勝手に夫妻の墓に決めています。(・_・;) )墓の前にも菊が供えてありました。
和田一族の近所にある棚田を見に行ったら種まきをしていました。
IMG_1468.jpg

その後雄琴神社に行ったら、菊の花が
IMG_1470.jpg
秋一色ですね〜!!。
Posted by makun at 18:59:22 │今日の出来事
2007-07-16
新潟県中越沖地震の被害に遭われた方々に衷心よりお見舞い申し上げます。m(_ _)m

ずう〜と待ち続けた睡蓮が本日やっと咲きました。
_1163.jpg

台風一過の3連休の最終日雄琴港にでかけました。
途中福領寺の山門で見かけた標語私には無理だが目標にしよう!
http://www.biwako-visitors.jp/search/spot_around_3916.html
_1164.jpg

雄琴駅の近くまで来たら、カッ、カッ、カッとリズム良くヒズメの音がしたので前方を目を凝らして見ると・・・なんと!独り乗りの馬車が、あっと謂う間に行き過ぎて行きました。・・・_1165.jpg

雄琴港に来たら、家族連れから若いカップルまで釣り釣り釣りで賑わっていました。
_1167.jpg_1169..jpgads.jpg
Posted by makun at 22:25:50 │今日の出来事
2007-06-28
最近は、梅雨とは思えないカッラッとした良い天気が多いですね。
雄琴神社の上の方の棚田を見に行きましたら、いっぱい人が出ていました。tanada1JPG.jpgtanada3.jpgtanada4.jpg
梅雨の合間の晴れた日だから一斉に畑仕事ですね。(晴耕!雨読?)
雄琴港の方に行ったら、釣り人やら犬の散歩やら心なしかお地蔵様もノンビリしていました。
turi.jpginuJPG.jpg
jizouJPG.jpg
Posted by makun at 19:03:52 │今日の出来事
2007-06-24
先日、何気なく和田秀純をグッグって見たら出ていましたのでここに記しておきます。(興味のない方はご免なさい。m(_ _)m )
和田(佐々木)氏
 近江国甲賀郡和田村に住した和田氏には、佐々木六角氏から分かれたとする説があり、その子孫がいまに近江国の旧家として続いているのである。すなわち、佐々木六角政頼の三男高成の次男定秀が和田を名乗ったとし、その曾孫に伊賀守惟政が出たとするものである。
 定秀は神崎郡和田に住し、和田山城主となり和田を名乗った。孫の高盛が、神崎郡和田から甲賀郡の伊勢国境に和田に移り住んだようである。高盛には三人の子があって長男が和田城主となり、その子が将軍義昭を援けた惟政であった。三男は中務大輔秀純となのり、六角義秀の近臣となり、のち義秀から志賀郡の雄琴城を賜わり、志賀郡の旗頭を命じられた。
 雄琴は北国や北近江から比叡山や坂本、さらに大津・京都に通じる北国街道の要地であり、琵琶湖湖西の水上を抑える重要な地点でもあった。このため、六角氏は早くからこの地に城砦を築いて西近江を固めるとともに、上洛や帰国の道筋を安全たらしめ、さらには将軍家の後ろ楯となって幕府や京都の治安を担っていたことから、雄琴を中心として南の坂本、北の堅田から京洛に通じる道を確保していたのである。
 それゆえに、六角義秀は信任する和田秀純を、雄琴城に入れて守備をさせたのである。その後、織田信長が将軍義昭を将軍に奉じるという名目で、近江に大軍を進めてくると義秀以下佐々木六角の旗頭たちは信長に協力することとなり、ついには信長の支配下となった。
 ところが、箕作城主の六角義賢(承禎)は、信長にあくまで抵抗して滅ぼされた。それ以後は佐々木家の旗頭たちは、六角義秀に仕えるとともに、信長の陪臣という立場となった。なかでも雄琴城主の和田秀純は、坂本城主となった明智光秀の支配下にも従うという、複雑な立場となっていった。
 その後、光秀が謀叛を起こして、信長を京都の本能寺に攻め殺した時に秀純は、光秀の味方には加わらなかった。そして、光秀を討ち滅ぼして、信長の仇を報じた豊臣秀吉に従った。そして、秀吉よりも先に秀純は死去した。
 秀純の嫡子は信盛で、六角義郷に仕えたが、六角氏が衰微したため、岐阜城主で信長の孫にあたる織田秀信に仕えた。慶長五年関ヶ原の合戦が起こり、秀信が西軍石田三成に与したため、東軍に岐阜城が攻め落とされたとき、信盛は奮戦して討死した。家は弟の正盛が継いだ。
 正盛は兄と同じく弓術に優れた武士であったが、佐々木氏が滅亡し、徳川氏の天下となり一国一城の令が布かれたため、雄琴城は廃城となった。そして、正盛は世に出る機会もなく郷士となって、六十七歳で没したという。
 その後、和田氏は雄琴に住して、江戸時代には膳所城主の本多氏、大構城主の分部氏などの知遇を得るなどして、一族は繁栄して、いまに多くの古文書や武具などと併せて家名を伝えている。
 足利幕府最後の将軍義昭に仕えた惟政を出した和田氏が、清和源氏満政流なのか、ここに記したように佐々木六角氏流なのか、その真偽は分からない。しかし、それぞれの家に伝わっている説が、正しいと信じる限り、それが正しいのだろう。(武家家伝 和田秀純で検索)
お墓には、和田中務秀純・後側は慶長8年12月3日卒と彫ってあつたが和田家の古文書にでも書いて有り例の叡山高校教諭の方が彫ったのかも?と想像をたくましくしております。江戸時代から彫ってあったらもっともっと風化している筈)
hakazenntaiJPG.jpghakaomoteJPG.jpghakauraJPG.jpg
Posted by makun at 19:00:46 │今日の出来事
2007-06-20
 日吉大社西本宮の前を流れる大宮川を少し遡ったところに鄙びた旅館がある。これが日吉山荘で、夏には川に設けられた床で瀬音を聞きながら風流な食事もできる。建物は谷筋に建てられ、飛竜の滝と名づけられた小さな滝の前に本館が建つ。一見すると建物が川を跨いで建っているように見えるが、川はここで曲折しているのである。(時代劇の風景  ロケ地探訪日吉大社 日吉山荘より抜粋)http://agua.jpn.org/film/f40c.html
ここは散歩でたびたび訪れていますので(いつも甘酒を飲み一休み)ブログにも再々登場しております。hiyasi1.1.jpg 
sukiyaki2.jpgsukiyaki1JPG.jpg牛肉と地鶏の2種類の肉を注文しました。sukiyaki4.jpg
sukiyaki7.jpgsukiyaki3.jpgsukiyaki5.jpg
今日は娘とその友達と特に孫達が大喜びでしたが雄琴から車で5分位なのに気温が5度位低く感じたのはすぐ側の飛竜の瀧のマイナスイオンの所為かな?
Posted by makun at 21:59:38 │今日の出来事
2007-06-13
 今日は真夏日?と思うくらい暑かったですね〜。
西教寺経由日吉大社のコースを散歩しました。IMG_0594.jpg
IMG_0594.jpg
西教寺には光秀のお墓があるから、光秀サミット何てどんなサミットなんですかね?流石、光秀は( 明智城城主明智光安の甥で清和源氏の流れの土岐氏の分流、明智氏の一族だといわれてきた。が近年、この説の根拠であった資料の信憑性が著しく低下し・完全戦国年表」より)の通り岐阜の方からも人がきますね。
日吉山荘に行ったら、いよいよ川床の準備を始めました。(水すだれのビニールを外しています。)IMG_0594.jpg後は川の上に座席を作るだけです。IMG_0594.jpg
IMG_0594.jpg
渓谷美って謳っているだけにコーヒーの水も比叡の湧水の使用ですIMG_0594.jpg
Posted by makun at 20:08:41 │今日の出来事
2007-06-06
 今日は結構久々に日吉大社の方に散歩しました。
最近の田植えは機械ですが、やはり最後の修正は手で植えるのですね!なんか、ホノボノとします。
田んぼのまわりの雑草刈りみたいです。IMG_0595.jpg
竹林園の裏口付近では蚊取り線香を腰にぶら下げてやはり雑草取りです。
皆、梅雨の前に一仕事かな?IMG_0595.jpgIMG_0595.jpg
今日はあまり暑くなくノンビリ散歩しました。明日は蕎麦道場のキャンセル待ちです(>_<)
キャンセルが出なかったら見学だけにして試食会だけはしっかり参加します。
Posted by makun at 20:10:54 │今日の出来事
2007-06-01
6月1日、無動寺にお参りに行きました。
坂本を10:30発のケーブルに乗って延暦寺駅に早速無動寺に向かいました。
今日は平日のせいか人もまばらでした。変なエンジン音がするので前方を凝視したら、若いお坊さんが(植木屋さんが使っている空気吐き出し器・掃除機の逆バージョン)参道を掃除していました。
IMG_0595.jpgIMG_0595.jpg
明王堂からの景色は最高でした。
IMG_0595.jpg
景色の良い所に腰かけに丁度よい台がありましたが行者様用の台でした。
IMG_0595.jpg
今日は大乗院の方まで行きました。
IMG6JPG.jpg
何が干してあるのだろうと、良く見たら草鞋でした。
IMG_7JPG.jpg
IMG_0595.jpg
草鞋の数もすごいが一足一足の草鞋が半端じゃなくすり切れてます。行の凄まじさを目の当たりにした思いです。
延暦寺駅の無動寺方面には特異な風貌の狛犬(こまいぬ)が睨みを利かしている。(辯天堂の狛犬らしく?蛇が彫ってありました。)
IMG_9JPG.jpg
Posted by makun at 18:54:41 │今日の出来事
2007-05-29
今日は、藤本食堂のおっちゃんに以前聞いた和田一族の墓の見学&屋敷跡が第一目的の散歩です。何故、和田一族の事が気になったかと云うと何気なしに読んだ本に出ていたからです。
最近、比叡山高校教諭和田頴氏方で出てきた古文書で明らかになった。
 和田さんの先祖和田秀純は現在の雄琴方面に勢力をもっていた土豪で、
これを味方にひき入れた光秀が和田秀純あてに、:::延暦寺攻撃は決して
おどしではない。・・・旨の事を書き送っている。この光秀の手紙が出てきた事に
ついては、わたしの叡山ゆきの前後に新聞に出た。
司馬遼太郎(叡山の諸道より抜粋)
何故か雄琴の土豪という表現が親しみを感じて(雄琴が生活の中心です!)出来る限り調べて見たくなりました。(急に郷土史家です。)
和田家文書わだけもんじょ雄琴所有者個人所在地大津市雄琴二丁目時代室町
和田家は雄琴に勢力をはった土豪で、室町時代近江守護六角家に仕えた家柄というが、
詳細は不明である。明智光秀が和田秀純に宛てたこの三通の書状は、
山門焼き討ちに関る内容から、元亀2年(1571)・同3年のものと考えられる。
なかでも、9月2日付けの書状からは、山門焼き討ちを前に光秀が行った雄琴の和田氏や
仰木の八木氏への工作が知られ、『信長公記』や『言継卿記』など記録や伝聞資料でしか
知られていなかった山門焼き討ちを伝える一次資料である。(大津市指定文化財)
江源武鑑「江源(こうげん)」とは「近江源氏」の略です。 
江源武鑑の信憑性
内容は見ていただけばわかりますが、通説との年号のくい違いは結構あります。
また聞いたことのないような人物も多数登場します。そのほか天狗や妖怪の類、超常現象なども
頻繁に現れ、おや?と思うような場面も何度もあります。ただこういったことは古文書にはよくあることです。(と云う事ですからあまりかたく考えないで下さい。)
元亀元年六月の江北姉川合戦について目賀田摂津守入道頼鬼、浅井土佐守入道時雲の
両名が日記に記した内容である。
元亀元年十一月小二十四日
味方では雄琴城主和田中務丞秀純が深入りして負傷し十死一生の状態であるとのことである。
屋形義秀公はこれをお聞きになって和田の働きに感じられ即座に自筆の感状を与えられる。
この和田の働きとは今城の二の丸に乗り込んで敵十二人と一人で戦い、
十四ヶ所も傷を負いながらついに味方の陣に帰ったということである。
元亀四年(癸酉) 今年の冬改めて天正元年と号す 八月小
十六日 信長が志賀郡の城々、雄琴、堅田、和爾、木戸、比良五ヶ所の城を攻める。
観音寺城から援軍を送るのは困難であるので落城する。
五ヶ所の城主は雄琴城が和田中書秀純三百騎、堅田城が山田民部少輔忠宗八百騎、
和爾城が和爾丹後守秀氏四百騎、木戸城が木戸越前守秀資三百騎、
比良城が田中左衛門尉二百騎である。
これらが城に立て篭もるが信長が四万余騎にて戦うと木戸越前守、
田中左衛門の両人が寝返り、さらに残りの城は屋形の援軍を待っても湖上からでは
遅くて間に合わないため開城して船で観音寺城へ退却する。」
これにより信長は志賀郡を手に入れ五ヶ所の城に家来等を配置する。
等々の記述を見るとどうやら和田秀純という人はかなりの豪傑で部下が約300騎位ですね。!!
そして、最初は浅井長政に味方してその後明智光秀の家臣になりその後はどうなったのかは分かりませんがお墓を見る限りでは没年が慶長8年12月3日となっています。(慶長8年の2月には徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けています)
歴史の面白さと言ったら良いのか?最初は小谷城の浅井長政の勢力下にいて、織田家と戦いその後、明智光秀の旗下に入り叡山の焼き打ちに参加して、没年が慶長8年という事は明智光秀の没落後はどんな方法で連綿と子孫を残したのか?そしてその子孫が約400年後には叡山高校の教諭になるなんて・・・和田秀純の家を残す為の苦労と400数十年後の皮肉な結果を思い巡らし妙に今日の明るい天気が眩しかった。
Posted by makun at 20:24:27 │Comments(2) │今日の出来事
Copyright© FudolBlog. All rights reserved.