今日は、藤本食堂のおっちゃんに以前聞いた和田一族の墓の見学&屋敷跡が第一目的の散歩です。何故、和田一族の事が気になったかと云うと何気なしに読んだ本に出ていたからです。
最近、比叡山高校教諭和田頴氏方で出てきた古文書で明らかになった。
和田さんの先祖和田秀純は現在の雄琴方面に勢力をもっていた土豪で、
これを味方にひき入れた光秀が和田秀純あてに、:::延暦寺攻撃は決して
おどしではない。・・・旨の事を書き送っている。この光秀の手紙が出てきた事に
ついては、わたしの叡山ゆきの前後に新聞に出た。
司馬遼太郎(叡山の諸道より抜粋)
何故か雄琴の土豪という表現が親しみを感じて(雄琴が生活の中心です!)出来る限り調べて見たくなりました。(急に郷土史家です。)
和田家文書わだけもんじょ雄琴所有者個人所在地大津市雄琴二丁目時代室町
和田家は雄琴に勢力をはった土豪で、室町時代近江守護六角家に仕えた家柄というが、
詳細は不明である。明智光秀が和田秀純に宛てたこの三通の書状は、
山門焼き討ちに関る内容から、元亀2年(1571)・同3年のものと考えられる。
なかでも、9月2日付けの書状からは、山門焼き討ちを前に光秀が行った雄琴の和田氏や
仰木の八木氏への工作が知られ、『信長公記』や『言継卿記』など記録や伝聞資料でしか
知られていなかった山門焼き討ちを伝える一次資料である。(大津市指定文化財)
江源武鑑「江源(こうげん)」とは「近江源氏」の略です。
江源武鑑の信憑性
内容は見ていただけばわかりますが、通説との年号のくい違いは結構あります。
また聞いたことのないような人物も多数登場します。そのほか天狗や妖怪の類、超常現象なども
頻繁に現れ、おや?と思うような場面も何度もあります。ただこういったことは古文書にはよくあることです。(と云う事ですからあまりかたく考えないで下さい。)
元亀元年六月の江北姉川合戦について目賀田摂津守入道頼鬼、浅井土佐守入道時雲の
両名が日記に記した内容である。
元亀元年十一月小二十四日
味方では雄琴城主和田中務丞秀純が深入りして負傷し十死一生の状態であるとのことである。
屋形義秀公はこれをお聞きになって和田の働きに感じられ即座に自筆の感状を与えられる。
この和田の働きとは今城の二の丸に乗り込んで敵十二人と一人で戦い、
十四ヶ所も傷を負いながらついに味方の陣に帰ったということである。
元亀四年(癸酉) 今年の冬改めて天正元年と号す 八月小
十六日 信長が志賀郡の城々、雄琴、堅田、和爾、木戸、比良五ヶ所の城を攻める。
観音寺城から援軍を送るのは困難であるので落城する。
五ヶ所の城主は雄琴城が和田中書秀純三百騎、堅田城が山田民部少輔忠宗八百騎、
和爾城が和爾丹後守秀氏四百騎、木戸城が木戸越前守秀資三百騎、
比良城が田中左衛門尉二百騎である。
これらが城に立て篭もるが信長が四万余騎にて戦うと木戸越前守、
田中左衛門の両人が寝返り、さらに残りの城は屋形の援軍を待っても湖上からでは
遅くて間に合わないため開城して船で観音寺城へ退却する。」
これにより信長は志賀郡を手に入れ五ヶ所の城に家来等を配置する。
等々の記述を見るとどうやら和田秀純という人はかなりの豪傑で部下が約300騎位ですね。!!
そして、最初は浅井長政に味方してその後明智光秀の家臣になりその後はどうなったのかは分かりませんがお墓を見る限りでは没年が慶長8年12月3日となっています。(慶長8年の2月には徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けています)
歴史の面白さと言ったら良いのか?最初は小谷城の浅井長政の勢力下にいて、織田家と戦いその後、明智光秀の旗下に入り叡山の焼き打ちに参加して、没年が慶長8年という事は明智光秀の没落後はどんな方法で連綿と子孫を残したのか?そしてその子孫が約400年後には叡山高校の教諭になるなんて・・・和田秀純の家を残す為の苦労と400数十年後の皮肉な結果を思い巡らし妙に今日の明るい天気が眩しかった。
Posted by makun at 20:24:27 │
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